愛の育み方を教える事の方が、重要..
教育評論家や政治評論家の話が全て正しいという風潮はやだなぁ…あくまでも1つの意見。
男子高校生が交際中の相手と性的行為を行ったという事で、退学に…
退学は重い処分なのでは?
規則を守る事を教えるのも大切だけど…コンドームをしっかりしなさいと教えてあげて欲しい…
多感な時期の恋愛を規則で縛るよりも、愛の育み方を教える事の方が、重要だと思いますけどね..
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「ここだけの話」をする人は、あらゆる場所を「ここだけ」にしてしまう(≧▽≦)
世の中にはコミュニケーション最重視みたいな人がいて、僕はそういう人が苦手だ。「ぶっちゃけますけど…」「あなただけにはお話しますけれど…」なんて言われると、「いや、ぶっちゃけないで」「みんなに言えないことは僕にも話さないで」とむしろ距離を取るようにしている。
わりと友達の多い、仲間の多い人って、こんなふうに、すぐに腹をわる、心を開いたふりをすることで関係性を築こうとする人が多いように思える。それは悪いことではないと思うけれど、僕にはどうも節操がない、品のない人付き合いの仕方に思えるのだ。
とりあえず好き嫌いで選ぶという方が、エゴを自覚しているだけ謙虚
自分を取り巻く人間関係を人の本質で見る、選ぶという理屈が傲慢なのではないか。人間の本質って何ですか。たとえば、約束を守る、という人は、その点において計算できる相手とはいえるかも知れない。しかしそれは本質とは関係ない。
本質だ、なんて体裁のいいことを言っても、要するに己が好き嫌いではないか。別にそれは悪いことではない。好きな人の指示に従い、その結果、盲目的に、それ以外の人を切っただけだろう。人の本質を見る、という発言がどれだけ傲慢で不遜なことか気づいていないらしい。とりあえず好き嫌いで選ぶという方が、エゴを自覚しているだけ謙虚に見える。
さて成功者の共通項というと成功者だけのものとミスリードしやすい。そうした特性は、失敗者にも多く共通するものだと付記したい。
手書き派・タイピング派?
ちょっとした事情があって会社に始末書を提出した。最初PCでタイプしようとしたら、私の勤める会社は、始末書は直筆だという。親会社の規則に準じた仕様らしい。久しぶりにまとまった文字数を手書きした。
便箋1枚を書くのに30分以上かかった。こういった書類は定型文で構わないが、手書きで文章を考えた。しかし時間をかけたわりには、たいした出来ではない。久々に手書きをして気づいたのは、タイプと手書きでは、文章の質が変わるということ。
私の場合は、PCでタイプした方が早くて内容が良い。手書きすると、文字を書くことに力が入りすぎ、書くことが頭に浮かんでもすぐに文字にできない。ストレスのため雑で稚拙な文章になる。
結局、PCでタイプしたものを下書きにして、それを書写することで仕上げた。二度手間。こうした手間、労力をかけさせる、ということが始末書(反省文)の意義なのかもしれない。馬鹿らしい。
人によっては、手書きで文章を書いた方がスラスラ書ける、という人もいるだろう。これは筆記具にペンを使うのに慣れているか、PCを使うのに慣れているかのちがいだと思う。不慣れなものを使うと思考が制約されるのではないか。
タイピングは早い方だと思う。普通に話す速度、つまりは頭で考えた速度でタイプすることができる。逆に文字を書くのは異常に遅いし下手だ。人それぞれ得意な方法で書けば良いと思う。手書きが得意なら、手書きで書いてからタイプすれば良い。
入試で小論文を書く。もし手書きではなく、PCでタイプするのが認められれば、合否はかなりかわるのではないか。評価すべきはコンテンツだ。手書きだろうがタイプだろうが書きあがるものの質は同じ、という考えは私には当てはまらない。
さてここまでPCでタイプして5分かかっていない。頭に思い浮かんだことを打っているだけだからだ。文字数は約785字。手で書いたら大変なことだ。
うまくいかないときの考え方
状況が思わしくないとき、誰もが「起死回生の一手」を探してしまう。仕事でも、ブログでもそういうときはあるだろう。焦れば焦るほど、思いがけない、逆転の手立てを求めてしまう。
しかし起死回生の一手というのは滅多にない。結局は、有効な手立てを見つけられずにジリ貧になってしまう。こうした場合は、どう対処したら良いのだろうか。
将棋では、「平凡な手」を見つけることに意識を向ける。このとき重要なのが、1つの平凡な手ではなく、その局面すべての当たり前の手を拾い出す。2つ、3つ、はじめのうちは簡単。しかし、10、20、100と漏れなく見つけるのは難儀である。
凡事徹底とは、「当たり前のことを極める」という意味だが、これは1つのことを極めれば良いだけではない。平凡な手すべてに意識を向ける、という意味もあるのではないか。ある一面では極めていても、別の一面では手つかずということもある。
手つかずの平凡な手に、思いがけない道筋、活路が開けることは多い。当たり前とされていることに見落としはないだろうか。すべての平凡な手を検討しただろうか。