ママと戦うぞ!
ある日、娘は新生児のころから愛用していたプーさんの枕を取り上げられた。彼女はもうすぐ3歳だが、悲しいことがあったり、怒られたり、眠くなったりすると、いつも枕を手に取り顔を埋めるのだ。それが彼女の精神を落ち着かせる安定剤でもあった。
それを理不尽に奪われた。
布団を敷き、彼女を寝かせようと枕を持ってくることを促したのだが、悲しい顔をして拙い言葉で僕に、枕が捨てられたことを訴えた。僕はなぜそんなことをしたのか、さっぱり理解できなかった。妻を問いただすと、いつまでも枕に依存させないためだという。来年は幼稚園、大きくなっても枕がないとだめな子にならないためにも、取り上げたというのだ。
これには僕は俄然納得ができなかった。どうしても納得しきれない。
心から愛していたものを、心の拠り所になっていたものを他人の理屈で無理矢理に奪われる。そんなことが許せなかった。たとえそれが3歳児相手であろうとも、許せないのだ。「娘のためだから」と妻は言う。しかし、それは自分の都合や価値観を押し付けているだけではないだろうか。「あなたのためになるから正しい行為だ」という正義を振りかざす姿は傲慢の象徴でしかない。
心の拠り所を奪われた彼女の心にはぽっかりとした穴が開いたことだろう。あれから数日経つが、未だにまくらを探し歩いている。その開いた穴はどうすればいいのだ。
成長とは他人から強制的に与えられるものではなく、自分のなかでの気づきから生まれるものだと僕は思う。確かに大きくなっても、大人になってもプーさんの枕無しでは生きていけなくなったら、それは問題があると思う。しかし、ざっと自分の周りを見回してもそういう人には出会ったことが無い。きっと誰もがお気に入りのものがあったとしても、成長と共にそれと決別してきたのだろう。もしくは決別をしないにせよ、頼る場所をわきまえて、使い分けているのではないだろうか。
それこそ成長だ。体と心が育っていく中で、決別は自分から行なうべきなのだ。自分にはこれが不要なのかを判断して、本当に要らない。となれば自分で捨てる。もしくはそれでも必要だと感じるのであれば、どういう時にそれに頼ればよいか、自分で判断するべきなのだ。
自分で考えて、理解して、行動する。
これこそが成長であるはずなのだ。だから今回の件に関しては僕は何度でも妻と戦う。僕は成長とはこういうものであるべきだと言い続ける。確かに幼稚園に行っても枕が手放せなかったとしたら面倒だ。しかし、今でも娘は外に出る際などは枕が無くても問題ない。誰かと遊ぶ時も四六時中まくらを持っているというわけではなく、辛い時に頼れる相手としての枕なのだ。それを無理やりに取り上げる必要性なんてないのだ。
きっと、今日も明日も彼女は探し続けるだろう。生まれた時からずっと一緒だった、親友とも言うべきプーさんの枕を。
僕はそれがどこに隠されているのか知っている。彼女の手が届かない押し入れの2段目だ。これをひょいと取って彼女に返せば全身を使って喜びを表現するに違いない。しかし、ここでもまた考えてしまった。彼女は探しているのだ。時間があればプーさんの名前を呼びながら家のなかをぐるぐると探している。
奪われたものを自分の力で探しだし、取り返そうとしているのだ。
その姿もまた成長の姿であるように僕は思った。
いいか、僕は必ずママを説得する。だからもう少し待っていてくれ。僕は君の成長を信じている。