awntan_52のブログ

あんなこと、そんなこと、どうでもいいこと。 気まぐれに書いてます。

幸せのエフォート

努力では越えられない壁は存在する。やればできる、努力なくして成功はない、このような言葉を頻繁に耳にするが、成功したのは才能のせいであるとは聞かない。人間には生まれつき能力の差があるのは当然だが、誰もそんなことは口にしない。

恐らくは誰もが才能や運の存在は認めている。ただ身も蓋もないことを言って、ひとのやる気を削いでも意味がないことを知っているのだ。子供には「努力したおかげでうまくいったのだ」と教えたい。これは親心だろう。

だが、こうした努力信仰を真に受けて頑張った子供が、あっさりと才能の差で負けることはよくある。こうしたとき、負けた子供は自分の努力が不十分だったと思い込む。これは正しいことだろうか。

負けた原因を才能の差にするのは「優しい」言い訳になる。一方、原因を努力不足のせいにすると「残酷」だ。どちらも救いがないのは同じだが、後者はさらに自分を追い込むことになりかねない。

こう書くと「努力は無意味だ」と言いたいのか、と誤解される。しかしそれは反対だ。努力こそが一等大切なことだと思う。結果としての勝ち負け、成功失敗に関わらず努力をすることは、万人に平等に許された能力である。努力することで自分の成長や手応えが感じられればそれで良いではないか。

こうした努力を自己満足というひともいる。勝負に負け、失敗すれば、他人は誰も認めてくれないからだ。努力の価値を「他人の評価」に見出すひとにとって、自己満足的な努力に虚しさを感じるのはわからないでもない。

努力の基準を「他者の評価」か「自分の評価」か、どちらに置くかで、努力は虚しいものにも楽しいものにもなる。個人的には自分の人生なのだから、自分の評価――自己満足を重視すれば良いと思う。

他人の評価は客観だが、自分の「幸福感」は主観が生み出す。他人の評価が自分の満足であり幸せである、という生き方は否定しないが、自分の幸福感が自分自身ではなく他人に依存し影響されている点でどこか危うさを覚える。

才能の差は厳然とあり、少々の努力では覆せるものではない。しかしそれでも自らの成長や手応えが実感できる努力は楽しいものだ。人生は自分が「幸せだ」と思えば幸せなのだ。たとえ、他人に評価されない自己満足であっても構わないではないか。