日本語と二人称
日本は本来、名前を呼び合うのは無礼とされていた。日本語には「あなた、きみ、そなた、おまえ」という言葉がある。これらも語源的にいえば「あちらにいる方、たいせつな方、そっちの方にいるひと、目の前にいるひと」というべき言葉で、英語でいうYOUのように、それ自体が二人称の代名詞として存在していたわけではない。
日本では古来、名前にはその人の魂が宿っていると考えられていた。それゆえに名前を安易に口にするのは、相手の生命を脅かすものだとさえ思われていた。千と千尋の神隠し、を見たひとはわかるだろう。
本名というのはそれほど大事なもので、そうやすやすと人から呼ばれては困るものだった。だからみんな相手の本名などは知っていても言わないのが礼儀。したがって相手を呼ぶ方法が本来なく、仕方がないので「あっちの方のひと」「前にいるひと」という言い方でぼかして二人称的に用いられてきたのだ。
ところがそういう言い方も、だんだん直に「相手」を指す言葉だというふうに固定してくると、それもまた使いにくくなる。直接ずばり「あなたはこれ食べますか」みたいな言い方をすると、何となく相手に対して失礼な感じがしないだろうか。
今でも親や祖父母、先生、長上に対して「あなたはこれ食べますか」みたいな聞き方はとんでもない無礼だということになる。日本語はこうした無礼を廃するために敬語が発達し、主語の省略がひろくつかわれるようになった。この場合は、「これを召し上がりますか」と言えば良いことになっている。
広告の手法で「あなた」と呼びかけるものがあり効果もある。けれど何となく多用するといやな感じがするのは、私たちがまだネイティブの日本人としての言葉と心を無意識下でも受け継いでいるからだと思う。
おかしな成功体験かも・・
アメリカのケリー長官を含め、G7の外相が揃って広島を訪れたのはすばらしいと思うと同時に、日本との戦争があまりに上手くいったことが、その後のアメリカの無謀な「対敵国方針」につながっているとも思える。
若者が次々と自爆テロをしかけてくる(アメリカからみれば)頭のおかしな民族に見えていた日本が、原爆おとしてコテンパにしたら、突然、親米的な国に豹変し、自国の国際戦略に協力してくれるようになった。この成功体験が忘れられないから、ベトナムやらイラクやらあちこち出張ってって爆弾を落とす。
同じように自爆テロをやめないISについても、武力でボコボコにさえすれば、日本のように、数十年後には親米的な国になると信じてる人もいるのでは?
男女の境
基本的に他人の容姿には関心がないけれど、性別がわからないというのは落ち着かない。あの人は男だろうか、女だろうか、と無意識に観察してしまう。性別の不確かさというのは人の関心を引く何かがある。認知不協和。
性別がわかりにくい時期というのがある。生後まもなくから幼児になるまでと、長寿のお年寄りは性別の判断がつきにくい。神仏には性別はないという。観世音菩薩は女性的だが口元に髭が生えている。
赤ちゃんもお年寄りも神仏に近いところにいるから性別が定かではないのかも知れない。古歌に「幼子のしだいしだいに知恵つきて仏に遠くなるぞ悲しき」というものもある。娑婆気の強さが性別を明確にするのか。
たまに見た目では性別がわからない赤ちゃんを褒めなければならない場面にあう。適当に「かわいいですね」と言っておけば良いのだが、性別をはっきりさせたい。こうしたときは「綺麗な顔立ちですね、女の子ですか?」と尋ねる。
本当は地方豪族のような顔立ちから「男の子」と踏んでいる。しかし着ているものが薄桃色だ。万一ということもある。実際は、万一どころか、三分の一くらいの確率で「はい、そうでしゅよ」とママが答える。やばい、やばい。
逆に、男の子を綺麗な顔立ちと前置きして女の子と間違えるのは気まずさはない。ママに「男の子だよね」と言われても「ボクは美男子になるね」と返せばだいたい笑顔になる。ママには豪族が高貴な王子様に見えているのだろう。