親しみのある「お国なまり」を適度に混ぜても良いと思う
名古屋弁講座。ごく普通に使っていたが、この地方特有の用法だと知って驚いたものに、形容詞の文末の「い」の省略がある。省略することで元の意味を強めたり感嘆の意味をこめたりできる。
例をあげると、安いを「やす!」、辛いを「から!」、暑いを「あつ!」、気持ちわるいを「気持ちわる!」、情けないを「なさけな!」、だるいを「だるぅ!」のように使う。三文字以上の形容詞ならほとんど適用できる。
今では、形容詞の名古屋的用法が全国に広まっているようだ。テレビを見ると若者が普通に使っているし、CMでも耳にする。名古屋由来で全国に普及した言葉というのは意外に多いのではないか。
武家言葉の「ござる」が全国に普及したのも、尾張や三河出身の武将たちが使っていたことに由来するという説がある。ござるは「いらっしゃる」の尊敬語で「北野さんはござるかね?」のように使う。
でも「ござる」は御座候(ござそうろう)という古語があるから、名古屋弁が由来とはいえないか。
さて、ブログは「話し言葉」で書くと良い、という教えがある。そのわりにみんな標準語で書いている。地元客が相手なら、親しみのある「お国なまり」を適度に混ぜても良いと思うが、いかがだろうか。もっと人柄も伝わるはずだ。
1つあれば人生には充分
自分はあれもできるこれもできると自己評価をどんどん上げる人がいる。周りから見たら評価の対象にならないものを数え上げているに過ぎない。あれもこれもできなくていい。周りが一致して評価してくれるものが1つあれば人生には充分なんだ。
悪口について
悪口の内容は、それを言っている人が「効果がある」と思っていることを言います。自分が言われたら「嫌だな」とか「凹む」ことを相手に向かって言うのです。
人間は多くの場合、判断基準を自分におきます。「相手の嫌なこと」を考えるときには「自分の嫌なこと」を基準にします。つまり悪口は、劣等感や心の弱い部分を自ら晒す行為ともいえます。
劣等感がない人は、何を言われても気になりません。相手にも悪口を言いません。自分の感覚に照らして悪口に効果が見いだせないからです。
自分の嫌なことを相手にぶつけるのが悪口ですが、逆のパターンもあります。自分がされて嬉しいことを相手にする、というものです。たとえば、自分が褒められて嬉しいと感じる人は、必ず他者を褒めます。
僕はほとんど人を褒めないので、意識して褒めるようにしています。これは自分が褒められても、あまり嬉しいと感じないのが原因かも。黙っているときは「相当良い」と思ってもらえば大丈夫かも・・笑
わずか数行で内容が伝わるのであれば、それが最も効率的で美しい。
ブログの文章は要約すれば数行に収まる。意識すればタイトルがすべてという状態まで洗練できる。しかし、ほとんどの人がそうはしない。わずか数行で内容が伝わるのであれば、それが最も効率的で美しい。Twitterの価値はそこにあったと思う。
数行で済むことを水増しすることで何か伝わるものが変わるのだろうか。SEO的には、検索に該当する語句が多く含まれるほうが良いかも知れない。しかしそのために文章を無闇に長くする必要もないと思う。結局、読むのは人間だから。
何10行、何100文字も書いて趣旨がわからないものより、1行で趣旨が明確なもののほうが優れている。余分なものを書けば書くほど大事なものが見えなくなる、ということもあるだろう。
文章が書けない、という人がいる。意味のない1行書いて手が止まる。伝えたいことが漠然としていると文章は書けない。パソコンの前で硬直するのはそういう人だ。何を伝えたいか、が決まれば手は自ずと動く。1行で伝えられるものは1行が美しい。
かつてのイデオロギー対立のような上部構造がない時代
啓蒙主義の時代は、終わったような気がしている。その理由は、二つあるのかな、と思う。一つは、グローバル化のもたらした反動のようなもので、要するに、普遍的な価値に対する、反発のような動きが目立つようになった。
国家が主権(sovereignty)を持つというフィクションが、グローバル化の中で脅かされているがゆえの反動として、国家のエゴを追求することに対する恥じらいのない容赦なさが、どこでも起こっている。中国やロシアだけではない。
なぜ、このような時代が啓蒙主義と無関係かというと、かつてのイデオロギー対立のような上部構造がないからだ。もっと、むき出しの生命としての利己性が、大国を含めた国家のモティーフになっている。そのような時代に、人々は慣れ始めてしまった。
加えて、最近感じるのは、テクノノジー、特に、人工知能の発達である。人工知能が、ムーアの法則の波に乗って急速に賢くなったため、逆に、人間が賢くなるべきという淘汰圧が減少して、まあ、そこそこでいいか、という弛緩が生じているような気がする。
人工知能が象徴するのは、システムである。インターネットなどのインフラがしっかりしていれば、大国の大統領候補が少々問題発言連発の道化者でも、まあ、いいか、というような、そんな許容の精神が生まれているように感じる。
啓蒙主義の時代は、人間は変わり得る、という信仰のようなものがあったが、今の時代のエートスは、「人間なんてどうせ変わらない」ではないか。その代わりに、人工知能などのテクノロジーが変わる。人間は一皿のコロッケのような存在になっていくのだろうか。
「リアルへの過度の依存」のほうがよほど問題が大きい。
「スマホ依存」とか「ネット依存」という言葉は使うのを止めたほうがいいんじゃないかな。ネットもスマホも勉強、読書、新聞購読、音楽試聴、映画鑑賞、情報収集、ゲーム、交流、コミュニケーションまであらゆることができるんだから、「一日8時間もネットをしている」ことの何が悪いのかわからない。
「一日8時間LINEをしてる」子に対してはLINE依存と言えばいいし、ゲームなら「オンラインゲーム依存」と言えばいい。ネット依存とかスマホ依存という言い方をするのは、もはや意味がよくわからない。
もはや一日中ネットをしてる人の「ネットへの過度の依存」より、全くネットを使わない人の「リアルへの過度の依存」のほうがよほど問題が大きいと思う。