うまくいかないときの考え方
状況が思わしくないとき、誰もが「起死回生の一手」を探してしまう。仕事でも、ブログでもそういうときはあるだろう。焦れば焦るほど、思いがけない、逆転の手立てを求めてしまう。
しかし起死回生の一手というのは滅多にない。結局は、有効な手立てを見つけられずにジリ貧になってしまう。こうした場合は、どう対処したら良いのだろうか。
将棋では、「平凡な手」を見つけることに意識を向ける。このとき重要なのが、1つの平凡な手ではなく、その局面すべての当たり前の手を拾い出す。2つ、3つ、はじめのうちは簡単。しかし、10、20、100と漏れなく見つけるのは難儀である。
凡事徹底とは、「当たり前のことを極める」という意味だが、これは1つのことを極めれば良いだけではない。平凡な手すべてに意識を向ける、という意味もあるのではないか。ある一面では極めていても、別の一面では手つかずということもある。
手つかずの平凡な手に、思いがけない道筋、活路が開けることは多い。当たり前とされていることに見落としはないだろうか。すべての平凡な手を検討しただろうか。
日本語と二人称
日本は本来、名前を呼び合うのは無礼とされていた。日本語には「あなた、きみ、そなた、おまえ」という言葉がある。これらも語源的にいえば「あちらにいる方、たいせつな方、そっちの方にいるひと、目の前にいるひと」というべき言葉で、英語でいうYOUのように、それ自体が二人称の代名詞として存在していたわけではない。
日本では古来、名前にはその人の魂が宿っていると考えられていた。それゆえに名前を安易に口にするのは、相手の生命を脅かすものだとさえ思われていた。千と千尋の神隠し、を見たひとはわかるだろう。
本名というのはそれほど大事なもので、そうやすやすと人から呼ばれては困るものだった。だからみんな相手の本名などは知っていても言わないのが礼儀。したがって相手を呼ぶ方法が本来なく、仕方がないので「あっちの方のひと」「前にいるひと」という言い方でぼかして二人称的に用いられてきたのだ。
ところがそういう言い方も、だんだん直に「相手」を指す言葉だというふうに固定してくると、それもまた使いにくくなる。直接ずばり「あなたはこれ食べますか」みたいな言い方をすると、何となく相手に対して失礼な感じがしないだろうか。
今でも親や祖父母、先生、長上に対して「あなたはこれ食べますか」みたいな聞き方はとんでもない無礼だということになる。日本語はこうした無礼を廃するために敬語が発達し、主語の省略がひろくつかわれるようになった。この場合は、「これを召し上がりますか」と言えば良いことになっている。
広告の手法で「あなた」と呼びかけるものがあり効果もある。けれど何となく多用するといやな感じがするのは、私たちがまだネイティブの日本人としての言葉と心を無意識下でも受け継いでいるからだと思う。