手書き派・タイピング派?
ちょっとした事情があって会社に始末書を提出した。最初PCでタイプしようとしたら、私の勤める会社は、始末書は直筆だという。親会社の規則に準じた仕様らしい。久しぶりにまとまった文字数を手書きした。
便箋1枚を書くのに30分以上かかった。こういった書類は定型文で構わないが、手書きで文章を考えた。しかし時間をかけたわりには、たいした出来ではない。久々に手書きをして気づいたのは、タイプと手書きでは、文章の質が変わるということ。
私の場合は、PCでタイプした方が早くて内容が良い。手書きすると、文字を書くことに力が入りすぎ、書くことが頭に浮かんでもすぐに文字にできない。ストレスのため雑で稚拙な文章になる。
結局、PCでタイプしたものを下書きにして、それを書写することで仕上げた。二度手間。こうした手間、労力をかけさせる、ということが始末書(反省文)の意義なのかもしれない。馬鹿らしい。
人によっては、手書きで文章を書いた方がスラスラ書ける、という人もいるだろう。これは筆記具にペンを使うのに慣れているか、PCを使うのに慣れているかのちがいだと思う。不慣れなものを使うと思考が制約されるのではないか。
タイピングは早い方だと思う。普通に話す速度、つまりは頭で考えた速度でタイプすることができる。逆に文字を書くのは異常に遅いし下手だ。人それぞれ得意な方法で書けば良いと思う。手書きが得意なら、手書きで書いてからタイプすれば良い。
入試で小論文を書く。もし手書きではなく、PCでタイプするのが認められれば、合否はかなりかわるのではないか。評価すべきはコンテンツだ。手書きだろうがタイプだろうが書きあがるものの質は同じ、という考えは私には当てはまらない。
さてここまでPCでタイプして5分かかっていない。頭に思い浮かんだことを打っているだけだからだ。文字数は約785字。手で書いたら大変なことだ。
うまくいかないときの考え方
状況が思わしくないとき、誰もが「起死回生の一手」を探してしまう。仕事でも、ブログでもそういうときはあるだろう。焦れば焦るほど、思いがけない、逆転の手立てを求めてしまう。
しかし起死回生の一手というのは滅多にない。結局は、有効な手立てを見つけられずにジリ貧になってしまう。こうした場合は、どう対処したら良いのだろうか。
将棋では、「平凡な手」を見つけることに意識を向ける。このとき重要なのが、1つの平凡な手ではなく、その局面すべての当たり前の手を拾い出す。2つ、3つ、はじめのうちは簡単。しかし、10、20、100と漏れなく見つけるのは難儀である。
凡事徹底とは、「当たり前のことを極める」という意味だが、これは1つのことを極めれば良いだけではない。平凡な手すべてに意識を向ける、という意味もあるのではないか。ある一面では極めていても、別の一面では手つかずということもある。
手つかずの平凡な手に、思いがけない道筋、活路が開けることは多い。当たり前とされていることに見落としはないだろうか。すべての平凡な手を検討しただろうか。
日本語と二人称
日本は本来、名前を呼び合うのは無礼とされていた。日本語には「あなた、きみ、そなた、おまえ」という言葉がある。これらも語源的にいえば「あちらにいる方、たいせつな方、そっちの方にいるひと、目の前にいるひと」というべき言葉で、英語でいうYOUのように、それ自体が二人称の代名詞として存在していたわけではない。
日本では古来、名前にはその人の魂が宿っていると考えられていた。それゆえに名前を安易に口にするのは、相手の生命を脅かすものだとさえ思われていた。千と千尋の神隠し、を見たひとはわかるだろう。
本名というのはそれほど大事なもので、そうやすやすと人から呼ばれては困るものだった。だからみんな相手の本名などは知っていても言わないのが礼儀。したがって相手を呼ぶ方法が本来なく、仕方がないので「あっちの方のひと」「前にいるひと」という言い方でぼかして二人称的に用いられてきたのだ。
ところがそういう言い方も、だんだん直に「相手」を指す言葉だというふうに固定してくると、それもまた使いにくくなる。直接ずばり「あなたはこれ食べますか」みたいな言い方をすると、何となく相手に対して失礼な感じがしないだろうか。
今でも親や祖父母、先生、長上に対して「あなたはこれ食べますか」みたいな聞き方はとんでもない無礼だということになる。日本語はこうした無礼を廃するために敬語が発達し、主語の省略がひろくつかわれるようになった。この場合は、「これを召し上がりますか」と言えば良いことになっている。
広告の手法で「あなた」と呼びかけるものがあり効果もある。けれど何となく多用するといやな感じがするのは、私たちがまだネイティブの日本人としての言葉と心を無意識下でも受け継いでいるからだと思う。