政治家の遊び
国家というのはフィクションであるが、すべてのフィクションと同じように、人間の思考や行動を支配し、リアリティにすらなる。だから、フィクションであるからといって軽視してはいけない。しかし、フィクションであることを忘れてはいけない。
二つの「国」のトップがあって、もともとは一つの「国」であることを確認した。この場合の「国」とは、本来の意味のフィクションであろう。二つの「国」は政体が異なる。一つは一党独裁。一つは議会制民主主義。一つの「国」ではない。
政治家というものは、もちろん、私人としての領域があり、そこでは生活したり、食べたり呑んだりしている。ところが、職業政治家は、何しろ、国家後生大事で、国がないと自分の仕事がなくなるんだから、国というものを事大主義にとらえる。
一党独裁の巨大な大陸国家にも、政治とは関係なく日常生活を営んでいる人たちがいる。彼らは自分の子女の将来に心をつかい、お金に余裕がある人は、米国や英国に留学させたりする。彼らにとって、国の政治とは邪魔されなけばよいというのが本音だろう。
一方、議会制民主主義と政権交代が定着した島の国に住む人たちは、バランスの良い資本主義の経済の下で発展し、島の外との行き来も自由である。彼らにとって、大陸の一党独裁国家と自分たちの「国」が一つの「国」だというフィクションには、イデオロギー以上の意味は見出し得ないであろう。
一党独裁の大陸国家のトップが、議会制民主主義の島国のトップと会って、今は別々にやっているけど、もともとは一つの「国」であるということを確認することには、フィクションとしての国家の作用の中でも最も薄いイデオロギーしか見いだせないだろう。
一党独裁の権力闘争の中で上り詰めた者にせよ、民主主義の選挙の下に選出された者にせよ、多数の人々の膨大で多様な生活実態を「国」という名の下に弄ぶのが許容されるというのは随分質の悪いフィクションだと思うし、そういう政治家の遊びにつきあうことが21世紀にふさわしいのか僕にはわからない。